• HOME
  • みたらしだんごの歴史

だんごの歴史

日本人が団子を食べ始めたのは縄文時代からではないかと推測されています。
当時身近にあったクヌギやナラの実(どんぐり)はアクが強いため、食べるためにいったん粉にして水にさらしました。
そのアクが取れた粉状のものを土器などで糊状の粥や団子にして食べました。おそらく団子状にしたものは食感が良く美味しかったのでしょう。
穀物を食べるようになってからも団子を食べる食習慣は捨てなかったようです。

室町時代にはすでに串ざしの団子があったようで、1600年代には団子は串に5つさすのが普通でした。
団子が一般的になったのは江戸時代が安定期になった1700年代で、その頃に「花より団子」という言葉も出来ました。
花見には今でも酒と弁当などは欠かせないと思いますが、それよりも団子が主役になるほど当時流行したようです。
同じ頃、1つ1銭で1串に団子の玉が5つで売られていたものが、1760年代に4当銭の貨幣が発行され、1串に4つさすことになったと記録にあります。


「みたらしだんご」について

みたらし団子は京都市の下鴨神社(加茂御祖神社)の葵祭りや御手洗(みたらし)祭のときに、神前のお供え物として氏子の家庭などで作られたのが始まりです。
言い伝えによると、後醍醐天皇(1318-1339鎌倉末期)が境内にある御手洗池で水をすくったところ、最初に泡がひとつ浮き、やや間を置いて4つの泡が浮き上がったところから、その泡を団子に見立てて作ったという話があります。
もうひとつ別の話では、みたらし団子は人間の頭と手足をかたどったもので、これを神前に備えてお祈りをし、それを家に持ち帰って醤油をつけて火にあぶって食べ、厄除けにしたとも言われています。

もともとは小さい団子を竹串の先にひとつ、少し間を置いて4つ続けて刺した串が扇形に10本並び、団子が50個ついていたそうです。
現在の形になったのは大正の頃で、この頃に生醤油の付け焼きだけだったものを、加茂みたらし茶屋のご主人が醤油と黒砂糖を使ったたれを考え出し、子供からお年寄りまで喜ばれました。
今では京都を始め関西でみたらし団子と言えば、甘いものというのが常識です。
また、みたらし団子は温かいお菓子ですが、葵祭(5月)や御手洗祭(7月)の時に食べてきたことから、本来夏のお菓子という事がわかります。

岐阜県の高山市でもみたらし団子があります。起源は諸説あるようですが、京都の下鴨神社の団子が伝わったという事のようです。高山のみたらし団子は生醤油のみで焼くため、甘くない団子です。
これは伝わった時期が大正時代以前だったのか、または、この地方では甘い団子が好まれなかったからと思われます。

参考文献  『日本一の団子』 サライ編集部・本多由紀子編  (株)小学館